連休が明けて日常に戻り、すっかり疲れ果てた金曜日。仕事に絡んで色んなことを考えてしまう。
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仕事が出来るって、なんだろう。
例えば、加減の多少はあれど、結構気が付かないとか、気が利かない人に出くわすことがある。
「お鍋見てて!」と言ったら、吹きこぼれようと焦げつこうと本当に見ているだけ。かき混ぜるとか火加減を調整するという考えに至らない人がいるのだ。
お鍋見てて!は、言葉面だけでなく、真の意図を読み取って本質的な問題への解決に邁進してほしいってことなんだけど、これがなかなか難しいですよね。
例えば、数字の羅列を並べただけで「検証しました」って言ってるけど、いやいやそれは検証とは言わないでしょう。数字の羅列から見えてくる傾向や課題を指摘して、それに対する解決策を提案しないと、本当の意味での「お鍋見てて!」へのアンサーにはなってないんじゃないか。
身近な人にも上司にも、います。こういう人って大抵、とっても人は良いんですけどね。
かくいう私も、「ただ言われた通りに見てるだけ」の人にはなるまいと気を張っているつもりだけれど、別の誰かからしたら、中身の薄っぺらな人間だと思われているかもしれない。
特別な切れ者にならなくてもいい、でも話のわかる人でありたいとは思う。
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かと言って、「切れ者」を履き違えた理論武装の人間にもなりたくない。
確かに事前準備をして、ああ言われたらこう言おうという考えは必要だと思う。けれども、理論的に話すのと、論破は少し違うはず。
論破は書いて字の如く、論を破るのだから、相手を負かすということに他ならない。相手を負かし、自分ができるだけ非を認めない方向に持っていこうとするのは、かえって自分の弱さの裏返しなのではないかと思ってしまう。穿った見方すぎるだろうか?
口の達者さの割に手は動かさないから、「まるで評論家だな」と傍目に思う。

なぜこんな話になったかというと、うちのチームにどちらの性質の人もいるからだ。両極端でどちらも疲れる。
私が思うように、周りも私を見て評価しているはず。自分は一体どんな風に見られているんだろう。そしてどんな人になりたいのか?
なんだか1人で自問自答の面談をしているみたいだ。
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性質の話では無いのだけれど、このところ立て続けに自分が漢字を書けなくなっていることに気づき、愕然とした。
先日は日記に「感謝」と書いた謝の字に、存在しない点を付けていた。たまたま母がそれを見る機会があり、「謝には点要らんけどね」と言われて赤っ恥をかいた。
さらに別の日、ふと年明けの初詣のときの写真を見返した。絵馬に書いた内容を記念に撮っており、「素敵な」と書くべきところを「素適」と書いていた。
いずれも書いた時には違和感さえ抱かなかったのだから、恐ろしいものだ。すっかりスマホに脳を乗っ取られかけている。
ゆるゆる続けているTOEICの勉強も一向に実を結ぶ兆しもなく、SNSで「これ5秒で解けないと500点はキツイ!」なんて煽り文句の投稿の問いに挑戦してはことごとく外し、ますます自信を失うばかり。
なんだかこの先どうなるのか、自分は頑張れているのか、色々悩みが尽きない。これも一種の五月病?
ずっと休みの楽しさが続けばいいのに。